- いつも旅のなか (角川文庫 (か39-6))
- 発売元: 角川グループパブリッシング
- 価格: ¥ 540
- 発売日: 2008/05/24
というか、エッセイは読まない。エッセイで、読もうと思い、なおかつ買おうと思うのはおそらく、清少納言と角田光代だけなのではないか、と思う。
さて。
待ってました。角田さんのエッセイ。そして今回は私の大好きな、"角田さんの旅"
角田さんの生み出す世界って、色が凄く溢れている気がする。
多くの屋台の1つ1つの商品の色、アジアンテイストな服、多種多様な色が混ざり合って出来た様な明るさ、派手さ、言ってしまうとけばけばしい。
極彩色、というやつかもしれない。
そして、その世界、その色を作り出しているのは、角田さんの旅経験だと思う。
角田さんの世界の根底には、やっぱりどう考えても、"角田さんの旅"がある。
今ではもう、私が角田さんの本を読み込んでいくうちに、そういう性格になったのか、元々そういう性格だったのか定かではないが、角田さんの旅は、私の迷子趣味に似ている気がする。
私と一緒にするのは非常に申し訳ないのだが。
角田さんの名誉のために。角田さん迷子になっているというわけでは決してない。
旅のしかた。彼女の旅のしかたが、どうも私の"迷子趣味"に似ている気がするのだ。
元々、迷子趣味の気があった私を、完全にそういう趣味にしたのは今思うと角田さんの世界観だ。
本当にちっちゃい時は迷子に動じた。
しかし、小学校も高学年になってきた頃、私は迷子に動じなくなった。そこから私は迷子趣味へ入っていくのである。
私は、自他共に認める―正直自分では未だ認めきれないところもあるのだけれど―方向音痴である。
ある場所に行こうとしても、何時もと同じ道を通らなければ絶対にいけない。
違うところから行っては、「ここどこー!」と叫ぶ羽目になる。一時、そんな事を毎週のように繰り返している時期があった。そうして繰り返すうちに気付いた。
「迷子になっても、帰ってこれる。必ず知っているところにつく。」
私は迷子に対して恐怖も覚えない、単なる能天気な阿呆となったのである。
そのうち、私は敢えて知らない道を通るように成った。
知らない道を通ると、家から車で行けば30分もかからないところでも、まるで別の場所、別の国に来たみたいな錯覚を味わえた。
知らない道だろうがなんだろうが、自分が行きたいと思ったらそっちへ行く。
知らないと感じたら、楽しそうと感じたら、思ったままに其方へ行く。
私はそうやって過
ごした。
そして最近。
何時ものように、"帰れなくなる"なんて微塵も考えず、何時ものように自由気ままに迷子になり、そしてとうとう、気付いたときには自分の良く知るところから結構離れたとこりにいた。しかし、そのときは何時もと違って、確かお昼前だったので家に帰らなければ成らない、と縛られるものがあった。
流石に焦った。徒歩だし。幾ら何でもここはわからなすぎる。
ふらふらと歩き、ふと眼に留まったのは駅だった。
JR線の切符を買って、自分の知る街へ帰る。迷子になってとうとう電車に乗るのは初めてだった。
まあ、とはいっても駅1つ分。200円もしない程度の距離なのだけれど。
その時以来、私は"迷子趣味"のことを、まず、"旅"と言う。
それは何も電車に乗ったから、旅なのではなく、私を変えるから旅なのだ。
あの、殆ど無人駅に近い、改札が常に開きっぱなしの駅。
地元の人としか思えない人達がいっぱい集っている中、システムが理解できずあたふたしていた私は、訝しげな眼で眺められた。
あのときの、緊張、は私を成長させた。
角田さんの旅も、そんな感じなのだ。
行きたいところに行って、思うままに足を進めている。そんな気がする。
角田さんの旅は made of 100%角田光代 なんだと感じる。
彼女が感じた事を、本を通じて理解する事は出来る。けれど見る事は出来ない。しかししかし、感じる事は出来るのだ。正確には、感じ取ること。
そして角田さんの旅から感じ取れるのは間違えなく人間の生の薫りだ。
生命の息吹と力強さ、今私の居る日本国とは明らかに違うシンプルさと、しかし似ている人間の感情。
それは"角田さんの旅"だから生み出すことの出来るものなのかも、と私は思う。
角田さんの旅は、トクベツだ!
そう、そのトクベツを惜しげもなくふんだんに盛り込んだのが、
『いつも旅のなか』 なのである。
本からは、先ほど述べた、生の薫りがぷんぷん漂う。
身体で感じることも出来る。
脳で考えることも出来る。
もしかして世界観をも変える。
生の香りのする"角田さんの旅"を、どう捉えるかは読み手次第。
しかし、1つ言えるのは、きっと旅をしたくなるだろう、ということだ。私のように。
感じるままに行く、旅をしたくなるのだ。
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